映画「ひゃくえむ」を実存主義で読み解く、なぜ50代の心にここまで刺さるのか

100m走という、たった10秒足らずの競技を描いた映画「ひゃくえむ」。
スポーツ青春映画かと思って観始めたら、思いのほか哲学的な問いを突きつけられた、という人も多いのではないだろうか。
かくいう私も50代にして、この映画ががっつり刺さった一人だ。
なぜここまで響くのか考えているうちに、この作品が一貫して「実存主義」というテーマで構成されていることに気づいた。今回はそれを、劇中の印象的な台詞とともに整理してみたい。
関連リンク:映画「ひゃくえむ」公式サイト
実存主義とは一体何か
簡単に言えば、次のような考え方になる。
人間には最初から決まった意味や目的なんてない。でも、だからこそ自分の行動で意味を作っていける。
普通、私たちは「なぜ頑張るのか」と聞かれると、「将来のため」「誰かのため」「勝つため」といった、外側にある理由を探そうとする。
しかし実存主義はその逆で、「そんな理由は最初からどこにも用意されていない。自分が動くことで、後から理由が生まれてくるだけだ」と考える。
この考え方を代表する哲学者は以下の3人。
サルトル:「実存は本質に先立つ」という言葉を残した人物。人間は「こう生きるべき」という設計図を持たずに生まれてくる。だから何者になるかは、自分の選択と行動で後から作っていくしかない、と説いた。
ハイデガー:人はいずれ死ぬという事実を直視して初めて、本当の意味で今を生きられると考えた。逆に、それを見ないふりして日常に流されることを「頽落」と呼び、望ましくない状態とした。
カミュ:人生にもともと意味なんてない、という前提に立ちながらも、だからこそ腐らず生き続けることに価値を見出した。
浅く考えろ、世の中舐めろ、保身に走るな、勝っても攻めろ
陸上界の絶対王者、財津が作中いきなりかましてくる、このセリフ。
一見すると調子に乗った軽薄な精神論にも聞こえるが、実存主義的に読み解くとまったく違う顔を見せる。
浅く考えろ
深く考えすぎることは、時に「行動する前に正しい理由を探し続けて動けなくなる」状態を生む。
意味は考えて見つけるものではなく、動いた後についてくるものだから、考えすぎることはむしろ本末転倒だという話になる。
世の中舐めろ
「世の中」とは社会的な価値基準や常識、つまり実存主義が言うところの「外部から与えられた本質」という事になる。
それを絶対視するな、というメッセージとして受け止められる。
保身に走るな
安全な場所に留まり続けることは、一見合理的でありながら、実は本来的に生きることを放棄している状態にほかならない。
勝っても攻めろ
ここが一番実存主義らしい部分だと思う。
勝利という「結果」すら、意味の最終的な答えにはならない。意味は勝利という結果の中にあるのではなく、攻め続けるという行為そのものの中にしかない。
私は生物です、いずれ死ぬ、そして2度と生まれてこない、理由はそれだけです
「なぜ挑戦を続けるのか」という問いに対する財津の答えがこれだ。一見しただけでは、ちょっと理解が追いつかない。
社会的な意義も、感動的なエピソードも出てこない。あるのは「一度きりの命だから」という、ただの事実のみ。
しかし実存主義の観点から見てみると、これほど分かりやすい答えはないといえる。「意味は後から自分でつくるもの」を、これほど乾いた言葉で言い切った台詞はなかなかないのではないだろうか。
現実逃避は俺自信への期待だ
世間からはピークを過ぎたと言われている現実を突きつけられた、ベテラン選手の海棠のセリフ。
俺の勝利が非現実的なら俺は全力で現実から逃避する。
現実逃避は俺自身への期待だ。
俺が俺を諦めていないという姿勢だ。
何のために走っているか分かってりゃ現実なんていくらでも逃避できる。
だが俺はこうも考える。
現実が何か分かってなきゃ現実からは逃げられねえ。現実に目を塞いで立ち止まるのと目を見開いて逃げるのとは大きく違う。
「現実逃避」という言葉を、これほど前向きに使う台詞も珍しい。普通、現実逃避とは「都合の悪いことを見ないふりする」というネガティブな行為だ。
しかしこの台詞は真逆で、現実を正確に認識していることこそが、そこから逃げる(前進する)ための前提条件だと語っている。
ここでいう現実も、社会的な価値基準や常識、つまり実存主義が言うところの「外部から与えられた本質」という事になる。
それを絶対視する事なく、走る意味、走る価値は自分の中から見出せば良いという姿勢は実存主義そのものだと言える。しかし、そのためにはまず現実をしっかり見る必要があると締めくくる。凄まじい覚悟だと思う。
絶対王者の独白、勝ち続けた先にあった空洞
陸上界の絶対王者、財津が最後にこう独白する。
私は、絶対王者などという称号と引き換えに闘争心を失った。
加速すればするほど皆は離れていく。そこで見える景色は最下位のそれと同じだ。
横を見ても誰もいない。こんなに退屈なことはない。
記録もメダルも大切だが、それらは1位を生み出せない。この世で1位を生み出せるのは、ただ1つ、対戦相手だけだ。
「絶対王者」という称号は、外部からの評価の極致。ここまで解説してきた通り、この映画は一貫して「外部の評価や結果に意味の根拠を置くな」というメッセージを発してきた。
そのメッセージを発してきたキャラクター財津が、まさにその外部評価の頂点に到達してしまった。
そして頂点に立った結果、皮肉にも闘う相手を失い、意味の根拠そのものを失ってしまった。
核心は「そこで見える景色は最下位のそれと同じだよ」という一言。1位も最下位も、横に誰もいないという点では同じ。つまり、孤立した状態では、勝敗という結果そのものに意味はない。
意味は結果の中にあるのではなく、他者との関係、闘争というプロセスの中にしかないということ。
「勝っても攻めろ」と言っていた本人が、まさにその通り勝ち続けた結果、攻める対象を失うことの虚しさに直面するという皮肉。
勝利という結果を追い求め続けた先に待っていたのは、意味の空洞だった。外的な成功を意味の最終目標にすることの危うさを、この独白は身をもって証明しているのだと思った。
なぜ50代の自分にここまで刺さるのか
100mの陸上競技という、若者のスポーツを描いた映画になぜ50代がここまで感情を揺さぶられるのか。
それは、50代という年代こそが、実存主義がいちばん鋭く刺さるタイミングだからだと思う。
「先が見える」ことは、実はチャンスである
20代における「いずれ死ぬ」という考えは、頭では分かっていてもどこか漠然として観念的だ。
しかし50代になると、残り時間やキャリアの天井、体力の衰えが、数字や身体感覚として具体的に迫ってくる。死は限りなくリアルなものとして存在し始める。
これは実存主義的には、むしろチャンスといえる。
若い頃は「まだ何にでもなれる」という漠然とした可能性に守られているが、50代はその可能性が急激に狭まる。選べる未来が減る代わりに、「今ここで何をするか」の解像度が上がるのだ。
「私は生物です、いずれ死ぬ、そして2度と生まれてこない、理由はそれだけです」という台詞にあるような境地は、若い頃には到達しにくいが、50代であれば案外自然に体感できるからかもしれない。
「意味を見失う」ことは、実は実存主義の出発点
50代になると、良くも悪くも先が見えてくる。
収入や出世、成功、名声、若い頃に信じてられていたもののゴールが見えてくる事で、それらの景色が鮮やかさを失っていく。
疑念や不安、喪失感に支配され、空虚が襲ってくる。
しかし、これは絶望の終着点ではなく、実存主義的にはむしろスタート地点なんだと気付かされる。
もともと意味などなかったという事実に、ようやく気づけた、そう捉え直すことができる。
衰えを自覚する事から生まれてくる強さ
体力の衰え、キャリアの限界、若い頃に描いていた自分と今の自分とのギャップ。これが50代にとっての「現実」だ。
それを見ないふりして惰性で日々を過ごすのは、まさに海棠の台詞が言う「目を塞いで立ち止まっている」状態にほかならない。
逆に、衰えも限界もはっきり自覚した上で、「それでも今の自分にできることをやる」と選び直すのが、台詞の言う「目を見開いて逃げる」という事だと思う。
若い頃の前進が根拠のない万能感に支えられていたのに対し、50代の前進は限界を知り尽くした上での選択であり、そこには衰えを自覚する事から生まれてくるある種の強さがあるように思う。
外的な意味づけ、出世や勝利、評価などが剥がれ落ちた後に残る、自分自身の生の事実だけを根拠にする。
それは20代よりも、むしろ人生の折り返しを過ぎた50代にこそ、体感として理解できる境地なのかもしれない。
「刺さった」という感覚は、きっとその地点に、自分自身がすでに立っているからなのだと思う。



